【知らなかった!】1941年12月8日
2015年3月22日(日)
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1941年12月8日。
何があった日かご存じですか?
それは、真珠湾攻撃があった日。
日本が太平洋戦争(大東亜戦争)に突入した日ですね。
でね、同じ日。
ヨーロッパでも、歴史の転換期となる日でした。
それは、
独ソ戦において、初めてヒトラーが、退却を命じた日。
~~~
本当に皮肉な日です。
1941年12月8日、日本は、ドイツの勝利を信じて、対米戦を始めた。
※正確には、アメリカ、イギリス、オランダ戦。
同じ日、ドイツは事実上、敗北が始まった。
~~~
歴史に”たられば”は無いです。
日本が戦争に勝っていたら・・と考えると、ゾッとします。
間違いなく、今の社会は実現していなかったでしょう。
軍部による政治がしばらく続いていたと思います。
結局は、日本はどんな策を採っても、敗北は免れ得ないものだったのかもしれません。
もしかすると、核戦争で、世界そのものが無かったかもしれない。
今、北斗の拳状態だったかも。
誰にもわかりません。
~~~
孫子の兵法というものがありますね。
その中で、書かれています。
「戦争は国民の犠牲という問題を遙かに超える、国家の存亡に関わることだから、慎重に、考えに考えて、やらねばなりませんよ」
戦争を始めるって、本当に、国が滅びるかどうかの大問題。
絶対、やっちゃいけない、愚策。
個人的に、そう思います。
~~~
話を戻します。
日本は、考えに考えた結果なんでしょう。
1941年12月8日、日本は、アメリカ、イギリス、オランダに宣戦布告したのでした。
その同じ日、ヒトラーは、退却を命じた・・・。
※実際は、「攻撃ではなく防御に徹しろ」と命令し、実質的な撤退容認命令を下した日、です。
~~~
1941年当時。
日本は、いくつもの方向性があって、実は「ソ連に攻め込む」というものもありました。
ヨーロッパでは、同盟国であるドイツがソ連と戦っている。
ソ連の西側ですね。
では、東側から攻めれば、挟み撃ち。
その有利さは、子供でも分かります。
いくつもの方向性の中で、「太平洋に進出する」というものもあった。
ドイツはヨーロッパで勝つから、欧米諸国の植民地はがら空きになるから、進出したほうがいいという論です。
最終的には後者、日本はドイツの勝利を信じ、太平洋への進出を選んだ。
その日が12月8日です。
~~~
実は、ソ連がドイツに勝った理由の1つには、次のものが挙げられているんです。
日本がシベリア(ソ連東部)に進出しないと分かったから、シベリアの兵力の多くを、西に移動させることができたから。
日本の選択が、ソ連の反対側(西側の対独戦)に影響していた。
昔、NHKの歴史番組でやっていたのを思い出しました。
(今回のタイトルのこともやっていましたね。12月8日が世界の歴史を変える転換期の日だったと。)
ドイツにいた外交官か何かの通信が、暗号解読され、連合国側に筒抜けだった。
日本にいた連合国側のスパイからも、情報が入っていた。
結果、日本はシベリアに進出しないことは、ほぼ確実と思われていた。
それで、ソ連は、シベリアから大兵力を西側へ移動させることができた。
ということで、日本の当時の同盟国であるドイツは、日本の戦略によって敗北した、という論もあるようです。
ドイツの勝利を信じた者が、ドイツの敗北を決定づけた。
皮肉なものです。
日本が太平洋ではなく、シベリアに進出していたら、どうなっていたんでしょうね。
~~~
どう締めればいいのかわかりません(-_-;)
そういえばご存じですか?
ソ連って、すごい戦術なんです。
兵士全員分の武器が無い。
軍隊を突入させますよね。
時には、その兵士数の3分の1しか、銃がない。
何を意味するのか?
進んで、死んだ兵の銃を使いなさいです・・・。
戦死者の数が、物語っています。
===Wikipediaから===
この戦い(独ソ戦)において、特にソ連側の死者は大規模である。なお、独ソ戦の犠牲者(戦死、戦病死)は、ソ連兵が1128万人、ドイツ兵が500万人である。民間人の犠牲者をいれるとソ連は2000~3000万人が死亡し、ドイツは約600~1000万人である。ソ連の軍人・民間人の死傷者の総計は第二次世界大戦における全ての交戦国の中で最も多いと言われている。
出展:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E3%82%BD%E6%88%A6
===転記 終わり===
犠牲者は、ドイツの約3倍ですね。
というのも、当時のソ連のトップ、スターリンは、すさまじい戦術でした。
スターリンはこの人。
すさまじい戦術とは・・・
戦死?仕方ないでしょ!?戦術です。
・武器なしで、突入させる。
・兵器を造る能力を下げさせないために、市民の避難を認めない。
=戦地で、兵隊と一緒に死ぬ。
・医療?必要ないね。人は死んでもまだまだいるさ。
いや~すさまじい。
ある意味、人海戦術です。
究極の人海戦術。
スターリンも含んで、当時の共産主義は、すさまじい。
戦いに行くとき、銃が無いんですよ。身を守ろうにも守れませんよね。
そもそも、君が死なないと僕には銃がない。
そんな状態です。正気の沙汰とは思えません。
でね、終戦後、もなんですが・・・
スターリンは、自国民の粛清も行っています。
その数もなんと、最大700万人。
戦争終わって、平和になったのに700万人。
筆舌に尽くしがたいです。
スターリンの悪魔ぶり。
意外と知らない人が多いです。
~~~
変な締め方ですが、以上、「知らなかった!1941年12月8日」でした。
歴史は、ひも解くと、知らないことだらけです。
同じくらい、誰にも分からないところも多い。
だから、興味深い。
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戦国史 好きなあなた、まだまだですよ。
2015年3月6日(金)
高校時代。
歴史98点、数学20点でした。
そんな男がお送りする、歴史のお話。
今回は、「戦国史好きなあなた、まだまだですよ」です。
「われこそは日本史好き、特に戦国時代が好き」というあなた。
まだまだですよ。
わたしはこの動画を知った後、好きと言っていたのが恥ずかしくなりました。
見つけた時には驚きました。
すらすら~っと、講義形式で戦国史の解説が進んでいきます。
そりゃまあ、すごい。
ここまですらすらと、超マイナーなことも解説できてしまうなんて。
この動画は、
小学生から 大人まで、自由に勉強できる無料の学習サイト「eboard」
の一コンテンツなのかな、と思います。特別編なのかな。
特別編、にしても、クオリティ高いですね。
~~~
では、動画の一部、ご紹介します。
【戦国列伝】武田信玄 前編
↓
http://youtu.be/V4b5F3Y3woU
【戦国列伝】武田信玄 後編
↓
http://youtu.be/Ss1cu0eK4zI
【戦国列伝】上杉謙信 前編
↓
http://youtu.be/MD4NUTTSpXY
↓
【戦国列伝】上杉謙信 後編
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http://youtu.be/wsjd8LOhHWA
【戦国列伝】川中島の戦い
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http://youtu.be/z-135dKAPHU
【戦国列伝】桶狭間の戦い
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http://youtu.be/iY8-rmKXHjk
【戦国列伝】織田信長 前編
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http://youtu.be/BmElwH3QA-E
【戦国列伝】織田信長 後編
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【戦国列伝】本能寺の変
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他にも、豊臣秀吉、中国大返し、など、ほんとたくさん!
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【勝手に想像】本能寺の変が起きたワケ
2015年1月25日(日)
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↑ 明智光秀とされている肖像画 ↑
高校時代、歴史98点、数学20点でした。
好きこそ物の上手なれ。
歴史にはとても興味があり、記憶にも残ります。
今回、間違いなく中世の歴史の分岐点ですね。
本能寺の変が起きたワケについて、書かせてもらいます。
たぶん、長文です・・・・(^_^;)
~~~
本能寺の変は、1582年6月21日に起きた、明智光秀の謀反です。
織田信長は死亡。
ご存じですね。
当時信長は、第3次 信長包囲網を突破しつつあり、武田信玄の病死により、天下統一が間近とされていました。
領土は、兵庫くらいから関東の手前まで、というものでしたが、実質的には、天下統一の直前といえる状態でした。
もう、包囲網を作ることができないくらい、敵対勢力が弱まっていた。
同盟を結び、団結するちからが残っていない。
あとは各個撃破または降伏させて、統一事業をしてゆく状態、ですね。
また、自分自身で攻略に向かわなくても、優秀な部下がたくさん育っている状態だったので、時間もかからない状態でした。
~~~
そんな中、突如、起きたのが、明智光秀の謀反。
つまり、本能寺の変です。
1582年6月21日。
今回、好き勝手に、本能寺の変が起きたワケについて、
考えてみようかと思います。
ほんと、好き勝手に(^_^;)
つまり、どうして明智光秀は謀反したのか?です。
わたしが今まで、ワケについて、見聞きしてきたものは、次のとおりです。
1.恨んでいた。
2.恐れていた。
3.何かを守ろうとしていた。
4.陰謀にハマって、騙されてしまった。
以下、簡単に解説してみますね。
~~~
1(恨んでいた)について。
本能寺の変の3年前。1579年に、光秀は、母親を殺されています。
丹波の統一のために戦争していたとき、人質交換で、自分の母親を敵地に送ったあと、交換した人質(波多野兄弟)を、信長が勝手に殺してしまった。
当然、敵は、とっている人質を殺します。
光秀の母親は、実質的には、信長によって、殺されてしまいます。
1582年前半のこと。
家康接待の役目を担った時、料理の不手際で、信長によって強い叱責を受けます。
実際には不手際は無かったとされています。
信長が、薄味の京料理が気に入らなかった、という説が強いですね。
同じ1582年前半のこと。
その当時、慈しみ深く治めていた、自分の領地を、急に信長は没収宣言します。
信長はその代わりに、まだ敵国であった領地を与えました。
これは、とんでもないことですね。
恨み骨髄に至るものばかりですが、実は、自分の家臣に「自分(光秀)がここまで出世できたのは信長様のおかげだから、自分が死ぬようなことがあっても、ずっと忠義を尽くしなさい」と家訓のようなものを遺していた、という、異常なまでの律義者でもありました。
~~~
2(恐れていた)について。
当時、手柄の少ない、能力の低い武将の「クビ」が始まっていました。
歴代の家老職でも、例外なく、クビになっています。
そのうち自分も・・・・と考えても仕方ない状況でした。
~~~
3(何かを守ろうとしていた)について。
信長は、自分のことを「神」のように称することがありました。
最初、冗談かと思ったようですが、どうやら信長、本気のようで、自分の化身である、大きな石を、家臣に拝ませていたそうです。
ご存じのとおり、信長は、既存の概念やシステムを、ことごとく、打ち破ってきた人。
日本の歴史上、ずっと続いてきた、「天皇制度」も、例外ではありません。
光秀は、天皇制を廃することをとても恐れていて、天皇を守るために謀反した、という説もあります。
また別の話で、当時、四国を治めていた長宗我部元親を守るため、とも言われています。
光秀と、その家老である斉藤さんは、長宗我部家と、親交があった。
最初、信長は「四国は長宗我部元親に任せる」と言っていたのに、いつの間にか、四国攻略軍が組織され、侵攻の目的になっていました。
光秀とその家老は、一回約束したことを反故にすることができなかった。
~~~
4(陰謀にハマって、騙されてしまった)について。
よくある話です。
殺人事件が起きて、誰が犯人だ!?というときに、「最も得をした人間」という、あれです。
本能寺の変が起きて、最も得したのは、まあ途中苦労はありましたが、羽柴秀吉ですし、その後に天下を獲った徳川家康です。
羽柴秀吉または、徳川家康が、光秀と諮り(はかり)、光秀に謀反を起こさせた、という説です。
~~~
いや~長かった・・・。
では、結論。
わたしなりに、勝手に想像した、本能寺の変が起きたワケです。
2(恐れていた)です。
正確に言えば、2(恐れていた)に、いくつか要素が加わったもの。
1(恨んでいた)で、家康の接待役での叱責、がありましたね。
あれ、信長は家康を暗殺しようと思っていたのではないか?と思うんです。
天下統一を前にして、粛清というのは、歴史上、よくある話です。
信長は、その準備を進めていた。
まず自分の家臣のうち、手柄の少ない者をクビにしました。
その次に、力のある人を排除する。
その一人目が、同盟国の君主であった、徳川家康。
徳川家康が死んだら、その息子が跡を継ぎますが、その息子、松平信康といいますが、1579年、自害しています。
信長の指示ではなく、信長への謀反の疑いに対する、家康の判断です。
実質的には、信長の指示に近かったのかもしれません。
松平信康は、比類ない優秀さで知られていたそうです。
家康の跡を継ぐ予定だった信康は自害となりました。
信長が関係して、です。
結果、家康が死んだら、跡を継ぐのは、徳川秀忠。
こちらは、優秀という評判は立たなかったようです。
事実、後世の関が原合戦では、東軍の約半分を率いながら、決戦に間に合っていません。
家康は、関が原合戦において、秀忠の遅れによる圧倒的な不利を乗り越えて勝利を得た、とういうわけです。
1582年当時、家康が死んだら、秀忠が跡を継ぐ可能性が高かった。
その当時、すぐに徳川家がなくなるのは、避けたかった。
関東には、北条が残っていましたし、越後、上杉家も残っていた。
東からの勢力拡大に対する備えは必要だった。
でも、家康ほど優秀でなくても良かった。
どうせ、あとで滅亡させるのであれば、愚鈍な君主の国のほうが都合がいい。
こういうワケで、
光秀には、「接待の席で、家康を毒殺しろ」と命じていたのでは?と思うんです。
なのに、光秀は、暗殺しなかった。
決定的な命令違反ですが、信長としては当然、表沙汰にできないことですから「強い左遷」という方法をとらざるをえなかった。
その左遷として、光秀には、秀吉の下に就く形で、援軍に向かう、という形になりました。
農民出身の秀吉に命令される立場です。
~~~
援軍として向かうのですがこれ。
もう、将来、ないですよね?
「次は、自分が粛清される」と思いませんか?
わたしなら、そう思います。
ついてきてくれている家臣は、そのほとんどが浪人になります。
その家族も路頭に迷います。
自分の身の上のこと以上に、ほんと、怖いですね。
3で書いたように、いろいろと守りたいものもある。
当然1の恨みもある。
結果、本能寺の変、です。
本能寺の変の当日の記録は定かではありませんが、中国地方を攻めていた秀吉の援軍に向かうはずのに、方向が全然違う。
本来なら、家臣団は、動揺を隠せませんよね。
離反者が出るかもしれません。
でも当日、兵の離脱や、重臣の謀反は一切、起きていません。(たぶん)
これは、信長への謀反が、家臣団には、とっても納得ゆくことだったのでしょう。
一糸乱れず、本能寺へ向かい、信長を討っています。
ちなみに、織田信長の長男、信忠も、同じ本能寺の変で、光秀に殺されています。
京都二条御所の戦闘で、奮闘したあと自害したと言われています。
~~~
そのうち自分も・・・
と恐れていたものが、
絶対、自分は、粛清されると、確信に変わった。
直接的なワケは、これじゃないか?
そう思います。
ということで、いや~長文でした。
ここまでお読みくださったあなた、本当にありがとうございます。
最後に、光秀の肖像画をご紹介して、終わります。
以上、投稿者 崎田 和伸でした。

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※2 平成25年10月~平成26年9月。広島県内の行政書士への依頼体の3分の2を想定。
※3 平成25年2月と平成26年9月の当社受任数の比較です。
役職員の平均年令は30代前半。
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