【ご存じですか?】「根本 博」という人物。
2016年6月6日(月)
わたし歴史が好きなので、映像やら本やら、よく見ます。
※高校時代、ある試験で歴史98点、数学20点でした。それくら好きということですね・・(^_^;)
特に、1945年前後のことは日本人として知っておかねばならないことが多いと思っています。
父方母方とも、祖父は出征しており、生前は話も聞いています。(もっと聞けばよかった・・・)
いや~、この時代のこと、教科書に載ってないことが多すぎる(-_-;)
知らない人が多すぎます。
戦後は載せちゃいけない、話しちゃいけない雰囲気が強かったでしょうから仕方ないことではあります。
今日は「根本 博」という人物について書きたいと思います。
歴史上の事実として書きます。(完全な事実というのは歴史では無いので、ある程度、確度の高いものとして・・・。)
右の人も左の人も、よろしければお読み下さい。
※今日の記事は、平和な時代にはちょっとキツイ表現を含みます。戦争表現が苦手でない方だけ、お読み進めください。
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中国大陸の近く、金門島という島があります。
台湾と中国との国境は、この島のすぐ沖にあります。
地図はこちら ↓
台湾というより中国大陸です。
ほぼ中国大陸ですよね。
どうしてでしょうか?
台湾と中国の国境が金門島にある理由は、この根本さんが深く関係しています。
この方は、日本人でも知らない人が多いと思います。
根本 博さんはこんな人です。 ↓
この人、実はすごい人で、何をやったかというと、次のとおりです。
1.終戦直後、中国大陸で・・・。
2.終戦後数年して、台湾で・・・。
まず、台湾のことの「前」に、1の中国大陸で何をやったか、です。
1.現地居留民4万人と、支那方面の35万人の将兵を救った。
ポツダム宣言を受けた昭和20年8月15日、内モンゴルあたりに総司令官としていました。ご存じのとおり、ソ連軍の侵攻(8月9日~)の真っ最中です。
8月15日以降、大本営からは当然のごとく、武装解除命令が出ていましたが、ソ連軍の侵攻が止むことはありません。
終戦や停戦は関係ないんですね、彼ら(ソ連)には。何を言っても無駄でした。
そのむごさは、ネットで「満州 侵攻」などで調べてみてください。むごすぎます。
そんな中、他の地域と同じように殺害と陵辱の限りを受けるのを避けるため、このような命令を下します。
「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし。これに対する責任は一切司令官が負う」。
自分の管轄する日本軍守備隊に対して、こう命令を下したわけです。
軍人としては軍法会議もので、死を覚悟しないと言えません。
そして次に、戦時中に戦っていた相手である「蒋介石」と交渉し、日本人と軍人の帰国のための策を講じます。
結果として、現地居留民4万人と、支那方面の35万人の将兵を日本に帰国させ、自身は最後の船で帰国しています。昭和21年6月のことです。
根本さんが上の命令を出さなければ、居留民4万人がどうなっていたか、35万人の将兵はどこへ行くことになったかは、想像にお任せします。
そして2の台湾についてです。
2.帰国後、竿一本持って、金門島に行き、共産党による中華人民共和国の侵攻を食い止めた。
第二次世界大戦が終わってから、中国では、共産党政府と国民党政府が内戦中でした。
国民党政府は追い詰められ、台湾に逃れる最中。
共産党政府はソ連の強力な援助があり、アメリカは国民党政府を見捨てたので、当然といえば当然です。
大陸側の金門島で敗れれば、国民党政府は最後の戦線を台湾にしなければならない状況でした。
根本さんは、約40万人の通過を許してくれた蒋介石に恩義を感じていて、復員後(=帰国後)、蒋介石からの求めで、金門島へ行きます。当時、日本軍属の動きは日本政府(GHQ)の厳しい監視下にありましたので、竿一本持って、ふらっと釣りに行く感じで、日本を出ます。
台湾では、一時密航者として投獄されますが、人物がわかると即、釈放。
蒋介石との面会後、国民党政府の軍事顧問、中将として作戦立案・実行に当たりました。
その作戦立案と国民党軍の奮戦により、共産党軍は敗退。
その結果、金門島が、今でも中国政府と、台湾政府との国境になっているというわけです。
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この根本さん。
約40万人を救い、金門島を護りましたが、救えなかった命もたくさんあったようで、そのためか、これらの事実は本人から語られることは、ほぼ、ありませんでした。
昭和41年、死去しています。
日本政府も、台湾政府も、政治的意図から、日本の旧軍人が台湾で作戦に関与していたことを明かすことができず、ずっと歴史の表に出ることはありませんでした。
ただつい最近(平成21年)、金門島の戦いの式典を機に、台湾政府が認めました。
今後もしかすると、台湾の教科書には載るのかもしれませんね。
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わたし、1945年前後の近代史の映像をよく観るようにしています。
極端に右寄り・左寄りのものが多いので、できるだけ客観的に観ることに努めながら。
やっぱり、この時期のこと、日本人は、知らないことが多すぎます。
ちなみに上の「1.終戦直後、中国大陸で・・・。」に関連して、書いてみますね。
今の日本では、満州全体からの居留民、軍関係者の引き揚げに際して、「関東軍は居留民を見捨てた」という論調が主になっています。
ただ、ちょっと調べると、
・軍は、居留民の引き揚げ計画を建てたこと。
・居留民の団体が、「性急すぎる」と反対したこと。
※たぶん、自分が開墾した土地や財産をスパっと捨てることができなかった。その点、軍関係者は身軽だった。
・関東軍は新京駅で居留民が着くのを少しの間でも待っていたこと。
・居留民がほとんど来ないので、次の便で行くはずだった軍関係者、家族を緊急に集め、まず第一陣として、列車を発車したこと。
ココらへんの情報を得ることができます。
もちろん諸論あります。事実と違うところがあるかもしれない。
ただ、後から乗った居留民、乗らなかった居留民は、ソ連軍、現地住民、共産軍から残虐の限りを尽くされています。
これは事実。
ソ連は、もとはモンゴル帝国ですから、略奪・陵辱はなんとも思わない民族です。今のロシアは違うと思いたいですね・・。
モンゴル帝国を作ったチンギス・ハーンの言葉はこちら ↓
「人間の最も大きな喜びは、敵を打ち負かし、これを眼前よりはらい、その持てるものを奪い、その身よりの者の顔を涙にぬらし、その馬に乗り、その妻や娘をおのれの腕に抱くことである」
これがソ連軍(ソ連軍を構成する民族)の基礎的な価値観になっていたわけです・・・。
でも戦後日本は左寄りの論調が強いので、こんな(=完全に見捨てたわけじゃなかった)ことは、言える雰囲気ではなかったのでしょう。
いや結果的には、見捨てたということになりますね。現代の平和な時代の価値観では。
現代の価値観からは、列車が空に近くなっても軍人は残って居留民を待つ、あたりが妥当な線ですが、戦時下それも緊急時は、そんな価値観は意味ないですね。
これからを考えるうえでは、そこらへんを勘案して、しっかりと自分の眼で見極めることが必要かもしれませんね。
もちろん、満州の731部隊などの旧日本軍の蛮行も、よくよく観る、知る必要があると思います。あれは蛮行以外の何物でもありません。
その731部隊の医師たちが、戦後の日本医学会の頂点に君臨していた事実も知る必要がありますね。
歴史は倫理、平和時の価値観とかけ離れた、矛盾に満ちたものだと思います。
長文になってしまいましたが、歴史に興味のあるアラフォーの
【ご存じですか?】「根本 博」という人物。
でした。
読んでくださって、ありがとうございます。
投稿者:崎田 和伸
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